京北宇津ってどんなところ?

宇津ってどんなところ?

京北宇津は京都市右京区、京北地域の南に位置し、京北地域内でも最も温暖な気候です。
市内から国道162号線を利用すれば車で約1時間。地域を流れる桂川は嵐山まで続いています。

現在の人口は、411名。175世帯が暮らしています。宇津は、山や川に囲まれた自然豊な所であり、のどかな風景が残る場所です。

昔から「北山杉」や「鮎漁」が有名。現在では蛍も見所の一つになりました。しかし、林業の低迷を受け、北山杉の伝統的な職人技の一つ「枝打ち」をする人も少なくなりました。また、鮎が釣れなくなり、鮎漁をする人も減ったため「鮎飯」という郷土料理を作る人も少なくなりました。

この伝統的な文化と技を維持するため、現在、宇津地域住民と私達京都精華大学の学生が一致団結し、たくさんのイベントを通じて町おこしを行なっています。

ぜひ、京都の自然と独特の伝統文化を学ぶなら「宇津」に一度お越しください!!

宇津の歴史

1.宇津に先住民について

4世紀頃、出雲族が日本海の沿岸を通って、丹後から丹後高原に入り、現在の京北の地に永い年代定着し、京都へ移り住み、加茂川を遡ってきた加茂族と手を握り、後年、太秦に本拠地を置く「秦氏」たちと長岡京から平安京遷都の大事業にも参加していたと考える。

※参考※ 宇津小学校運動場拡張工事中、発掘された古代人の住居跡は出した「石やじり」から推定して新石器時代まで遡ると考える。

2.平安時代から現在まで・・・。

○平安時代ー下宇津では律令制度のゆるみから京に「炭」を売りに行く者、若狭から魚を売りに行く者が往来し、京の商人との物々交換が盛んに行なわれていました。

​○鎌倉時代ー中期から後期にかけて、桂川流域は禁裏百姓、寺領百姓として、農業技術がすすみ、牛や馬を使い耕作が行なわれていました。

​○江戸時代ー明智光秀の丹波平定以後、江戸時代を通じて皇室領、門跡地領、旗本領に細分されました。柏原・弓規・栃本・中地・栗生谷・浮井・明石の7部落に分かれ、園部藩主小出候の所領になりました。当時、下宇津特産品は、薪・炭で、水運や峠道を人や牛の背により運ばれました。また、上流や支流から集められた木材を組み直す中継地点でもありました。

​○明治時代ーこの頃から寺子屋など、教育の場が増えていきました。

​○大正時代ー大正10年末、宇津村の人口は戸数191、人口(男)528名、(女)441名計969名。現在の宇津の人口の倍近い人が生活をしていたことになります。生業は米作農林業薪・炭を営み、養蚕も盛んに行なわれていました。特産品は、柿実・篠竹製笊で、各地に出荷されていました。

○昭和時代ー笠トンネルや小学校の着工など京都市内との距離が近くなっりました。この時期最大の出来事は「日吉ダム問題」でした。

○平成時代ー構想以来38年、日吉ダムが完成し、上流にあたる宇津の集落も変化します。宇津峡も姿を変え、京北随一の魚場は同時に消滅してしまいました。桂川の両側に連絡道が整備され、日吉側への移動が短縮されました。さらに、下水道完備など衛生面の向上もありました。弓槻トンネルの開通により、峡と市街地との距離がさらに近くなりました。京都市に合併編入、京都市右京区京北宇津となり、現在に至ります。