○宇津の歴史
1.宇津に先住民について
4世紀頃、出雲族が日本海の沿岸を通って、丹後から丹後高原に入り、現在の京北の地に永い年代定着し、京都へ移り住み、加茂川を遡ってきた加茂族と手を握り、後年、太秦に本拠地を置く「秦氏」たちと長岡京から平安京遷都の大事業にも参加していたと考える。
※参考
宇津小学校運動場拡張工事中、発掘された古代人の住居跡は出した「石やじり」から推定して新石器時代まで遡ると考える。
2.平安時代から現在まで・・・。
○平安時代ー「有頭郷」といばれ、食文化の面で有頭が中心となっていた。例えば、下宇津では律令制度のゆるみから京に「炭」を売りに行く者、若狭から魚を売りに行く者が往来し、京の商人との物々交換が盛んに行なわれていた。
○鎌倉時代ー中期から後期にかけて、桂川流域は禁裏百姓、寺領百姓といい、農業技術がすすみ、牛や馬を使い耕作が行なわれていた。
○江戸時代ー明智光秀の丹波平定以後、江戸時代を通じて皇室領、門跡地領、旗本領に細分された。柏原・弓規・栃本・中地・栗生谷・浮井・明石の7部落に分かれ、園部藩主小出候の所領になった。当時、下宇津特産品は、薪・炭で、水運や峠道を人や牛の背により運ばれた。また、上流や支流から集められた木材を組み直す中継地点でもあった。
○明治時代ーこの頃から寺子屋など、教育の場が増えていった。
○大正時代ー大正10年末、宇津村の人口は戸数191、人口(男)528名、(女)441名計969名。現在の宇津の人口の倍近い人が生活をしていた。生業は米作農林業薪・炭を営み、養蚕も盛んに行なっていた。水路をめぐり争いごとが多く発生している。
特産品は、柿実・篠竹製笊で、各地に出荷されていた。
○昭和時代ーこの時代、経済的な打撃を受ける。さらに、風水害が目立つようになる。笠トンネルや小学校の着工など京都市内との距離が近くなった。この時期最大の出来事は「日吉ダム問題」だ。
○平成時代ー構想以来38年、日吉ダムの完成とともに、家屋の移転で下宇津の集落形成は変わった。宇津峡も姿を変え、京北随一の魚場は同時に消滅した。桂川の両側に連絡道が整備され、日吉側への移動が短縮された。さらに、下水道完備など衛生面での向上が著しい。弓槻トンネルの開通により、峡と市街地との距離がさらに近くなった。京都市に合併編入、京都市右京区京北宇津になる。北桑田郡は消滅する。しかし、利便と引き換えに失ったものも多い。